常陸国風土記の縁の場所をご紹介。場所や情景とあわせ風土記上での記載内容もご覧いただけます。
多珂郡の郡衙推定地。遺跡は、東西約300m、南約1,000mに及んでいる。
全長87m、高さ5.5mで、東海村最大の前方後円墳である。
東海中学校から東へ約250mの場所に位置する前方後円墳である。
久慈郡の条に、薩都からみて東の大きな山を「賀毘礼の高峰」と呼んでいるとある。
久慈郡の条の「賀毘礼の高峰」に続いて、近くに小川があり、現在の里川である。
久慈郡の条は、「高市」から東北へ二里のところに密筑の里があるとしている。
久慈郡の条に「高市より東北二里に密筑の里がある。村の中に清き泉がある。
密筑里から北東へ三十里のところに助川の駅家があり、昔は遇鹿と言ったとある。
久慈郡にある助川駅家の「助」の由来は、久慈の郡の条でみたとおりである。
田尻町の田尻小学校の南側に度志観音跡がある。その岩壁に仏像が彫られている。
『古事記』『日本書記』にあらわれる日本武尊の妃である弟橘媛が投影されている。
藻島の駅家の遺称地は、十王町伊師が有力候補地である。
囲碁は、奈良時代には中国から入ってきており、貴族たちに愛好されていた。
「風土記」の志太郡名由縁にいう黒前山は、十王町にある竪破山のことである。
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「桑原の岳」の伝承地は、宮平遺跡群とされている。
世界最古の貝塚であり、これにまつわる巨人伝説とともによく知られている。
現在は「萬葉曝井の森」という公園として、市民の憩いの場となっている。
台渡里官衙遺跡は、台渡里官衙遺跡と台渡里廃寺跡からなる。
大道端遺跡は、水戸市島田町から平戸町一帯に広がる遺跡である。
『常陸国風土記』に記述され「晡時臥山」と推定されている。
田谷町地内にある田谷遺跡・白石遺跡の一帯が推定地と考えられている。
ここから臨む霞ケ浦はまさに「佐礼(我)流海」を臨む場所と考えられる。
『常陸国風土記』茨城郡の条には、郡の西南部に志筑川が流れていると記載される。
男体山、女体山の二峰からなる標高877mの山で、古くから信仰の対象となっていた。
筑波ふれあいの里内にある2つの巨岩で、それぞれの岩は男女を示すとされる。
発掘調査によって奈良・平安時代の高床式倉庫跡約50棟が確認された遺跡。
発掘調査によって奈良・平安時代の建物群が確認された遺跡。
6世紀前葉頃に造られた墳丘長約91mの前方後円墳で、桜川中流域最大の規模を誇る。
大塚古墳1号墳は、黒坂命の遺骸が葬られた場所であるという伝承がある。
雄栗の村は陸平貝塚周辺が雄栗の村と推定される。
延喜式神名帳にも記されている式内社で、古代の信太郡の一の宮です。
「新治郡」に、今も新治の里にあり、祭りごとをしているという記述がある。
「新治郡」の記述に見える、新治郡の所在場所(位置)周辺の情景が現存する。
常陸国新治郡の役所跡。古郡という地名が示す通り、古代の役所が置かれた地である。
江戸時代から、注目され、大正期時代には古代の寺院跡であることを指摘された。
前方後円型の墳墓。削られた部分を含めると、県内最大級の規模である。
天明2年(1782)、江戸の妻恋稲荷の分霊を迎え祀ったものである。
実際に鹿島神宮の南側に発見された常陸国鹿島郡の郡家跡である。
1986年に国指定史跡「鹿島神宮境内附郡家跡 坂戸神社境内」に指定された。
鹿島神宮は武甕槌神を祭神とする元官幣大社。藤原氏の氏神として知られる。
愛し合う男女が松の木に変身したという伝説にちなんだ公園です。
古墳群は、東部古墳群と西部古墳群があります。